ある時期、私は、占いにハマっていたことがある。
何をしてもうまく行かない時があり、藁をもすがる思いで、占いに行き着いたのだ。
元々私は占いに対して、「どうせ当たらないし、くだらないな~」と思っていた。テレビで流れる星座占いも、話半分で聞いていた。
ただ、占いに行ってみて、その考えは180度変わった。
予言とタブー
占いというと、今日の運勢や未来予知などを想像しがちである。いわゆる「予言行為」である。
もちろん、占いにはそういう部分もあるのだが、重要なのはそこではない。
それは、占いにおけるタブーとして「寿命を占うこと」や「どの馬が勝つか」などを占えないことからも分かる。また占い師を試すようなこともタブーとされている。
これらのタブーは「あまりにも重要な予言は出来ない」ということであって、逆に言えば「外れても良いことであれば予言できる」ということである。
つまり、占い師側から見ても、予言行為は重要ではなくて、しかもリスクが有るということが言える。
占いは統計学なのか。
また、最近言われている言説として、「占いは統計学である」ということが言われる。
確かに、占い師は何百何千という人を見ていて、経験を統計学的に見ることが出来る。手相占いも「こういう手の人は、こういうことが多い」という意味で、統計学的なのかもしれない。
しかしそれならば、統計学をそのまま適用すればよいのではないか。いちいち高いお金を払わせなくても、自らの経験を、統計学としてきちっと証明するということを行えばよいのではないかと思う。
そういう意味で、占いは「統計学的」ではあるかもしれないが、「統計学」ではない。
占いとはなにか。
それでは占いとはなにか。
それは「カウンセリング」である。
占い師は、いわゆるコールドリーディングや統計学的な自らの経験によって、その人の経験を語らせる。それによって、あるべき未来を提示する。
占いは、このカウンセリングを行うための仕組みがある。
占いと俗世
占い師は赤の他人である。だから、これからの人間関係を気にせずに、相談することが出来る。
占い師側も、それをわかった上で「キャラ設定」をしている。
つまり占い師は、「この人は、俗世にいる人ではない」ということを印象づけることが必要なのである。だから、占いをする環境、儀式的行為、仮名などの工夫を行うのだ。
「俗世にはいない」という意味では、当然お坊さんも同様である。
また昔で言うところの「オカマ」も、「男でも女でもない」という意味で、同じ様な立ち位置にいたように思う。
俗世とは異なるチャンネルを持つこと
占いを受けてみて思ったのは、俗世とは異なるチャンネルを持つことの重要性である。つまりは「駆け込み寺」である。
特に信じてもいない占いを安易に勧めるのは気が進まないのだが、しかし、どうしようもなくなったときに行き着く先を、あらかじめ確保しておくのは重要なことであると思う。
実はこの記事を書いたのは、東浩紀氏がツイッターを辞めたのがきっかけだった。
とりあえず騙されたと思って、占いに一度行ってみてはどうか。