かつげんの拠り所

1992年生のしがない子ども福祉系地方公務員のブログ

「男らしさ」と男であること

anond.hatelabo.jp

ジェンダー関連の本をいろいろ読んでいると、複雑な気分になる。フェミニズム的な観点からジェンダーを論じることがほとんどで、いわゆる男性学的な議論が少ない。だから少し置いてけぼりを喰らっているような印象を抱いてしまう。

「男性は基本的に犯罪者予備軍扱いされるんだから」という部分は、あまり同意しないが、「男性が男らしさから降りたらどうなるんだろう」ということは、ときおり考える。

そもそもジェンダー論は、2通りの方向性がある。社会的性差を保存していくのか、なくしていくのか。ジェンダー論は、フェミニズム運動から始まっているから、後者の方向に進んでいっている。つまり「男もいろいろ、女もいろいろ」ということにして、「人間いろいろなんだから、男も女も関係ないよね」という感じで、社会的性差をなくす方向に動いているように見える。

しかし社会的性差という面ではそれが可能であっても、生物学的な性差という面では、「男も女も関係ない」とは言えない。生物学的な性差といっても、両性具有の人がいるとか、遺伝子的に未分化である人がいるのは分かる。しかし、生物学的な傾向として、やはり男女で分かれていることは自明であるように思う。

こうなると、生物学的な性差は残りつつ、社会的性差を取り除くことが出来るのか?
つまり、「男であること」と「男らしさ」を分離することは出来るのか、という問題に直面する。

もちろん、部分的な制度やふるまいについては、社会的性差を取り除くことが可能だろう。しかし「男らしさ」という全体的な空気は、「男であること」に紐付いているがために、なかなか取り除くのが難しいのではないか。

昨今のジェンダーの議論を見ていて思うのは、「男女である前に人間であること」が重要視されていて、「男であること」とはどういうことなのかが議論されていない。

だから「男らしさから降りろ」とか「男ってホント時代遅れだよね」という話に対して、「お前らだって、女を使っているだろう」とか「それでカネを稼いでいるんだろう」という話になる。生物学的な性と社会的な性のかかわりは、複雑に絡み合っていて、そこを上手く整理していかないと、根拠もなく、ただ感情的に是非が判断されるだけになってしまうのではないかと思う。

「男らしさ」という言葉をとっても、昨今は「男らしさから降りる人」が注目されがちだ。しかし「男らしさにしがみつく人」もいる。というより、「しがみつかないと生きてこれなかった人」と言ったほうが正確かもしれない。それは今までの時代が、彼らにそれを要求してきた面もあるのではないか。男らしさにしがみつく人たちは、もはや「時代に取り残された人」として扱われてしまうのか。

こう考えていくと、「新しい男らしさ」を発明しなければならないような気もする。しかしこれは、社会的性差の再発明であって、ジェンダー論的に許されるのだろうか。

個人的にむず痒い気持ちを抱えながら、昨今の騒動を見ている。