かつげんの拠り所

1992年生のしがない子ども福祉系地方公務員のブログ

努力できることすらも才能なら、私たちは何をすればよいのだろう。

村上隆の「芸術起業論」について

 村上隆の「芸術起業論」を読んだ。

芸術起業論 (幻冬舎文庫)

芸術起業論 (幻冬舎文庫)

 

 言ってみれば「ジャケ買い」なのだが、読んで良かった。
 アートについては、どうしても「変人がやるもの」というイメージがある。趣味で絵を書くのと違って、それを職業としているのは「変わり者」だと思っていた。

 しかし、村上隆はこの本で至極まっとうなことしか言っていない。

「アートの文脈を捉えて、新しい切り口を見つけないといけない」
「世界と勝負しなければいけない」
「アートは、お金が大事」

 大事なのは、アートと真逆の位置にありそうな学術研究でも、日々の企業での仕事でも、結局同じではないか。

努力の人

 さて、この本を読む限り、村上隆は努力の人だ。
 この本を読みながら、私は、リーガルハイ2でのある話(以下の動画の31分すぎから)を思い出した。

jp.channel.pandora.tv

 明らかに宮崎駿を意識しているこの物語。読み進めていたら、やはり村上隆宮崎駿が好きらしい。

 ここで問題となっているのは、「才能」と「努力」の問題だ。
 動画では、伊東四朗がこんな風に言っている。

俺だって、天才なんかじゃない。
誰よりも必死に働き、階段を一つひとつ踏みしめてきただけだ。
振り向いたら誰もついてきていない。
怠けた連中が麓でこうつぶやく 

 

『あいつは天才だから』

 

冗談じゃない。

  才能があって結果を残す人もいる。一方で、才能がないと自覚し、努力を積み上げて結果を残した人もいる。そして、努力をして報われた人もいれば、報われなかった人もいる。
 努力が報われた人からみれば、「あいつは天才だから」という言い訳は、当然「冗談じゃない」と言い返したくなる。
 だから、努力が報われた宮崎駿(を模している伊東四朗)や村上隆は、

「結果を残したいなら、まず努力をしろ。話はそれからだ。」

 と主張することになる。

努力と才能

 しかし、最近の世の中の傾向を見ると「努力は才能を凌駕する」という話にすら、疑いの目が向けられている。つまり、「努力できるのも1つの才能だ」という主張だ。

karapaia.com

 才能の拡張は、ついに努力をも飲み込もうとしているのである。

 そもそも努力は、天才(神)に近づくための、極めて人間的な発明だったはずだ。「どのように努力すればよいか」を具体的に知るために、科学が生まれたといっても良い。
 今やその科学によって、天才に近づくためのツールとしての努力は否定されようとしている。

 しかし、努力できることすらも才能なら、私たちは何をすればよいのだろう。

 産まれたときの個体差と家庭環境の偶然(今風に言えば「ガチャを回す」ということになるのだろうか)に賭けるしかないのか。
 しかしそれでは、産まれたときからすべてが決まっているようで、あまりにも報われないではないか。

 私はまだ、このような「科学的決定論」には与したくない。
 例えその態度が非科学的で、前時代的であっても。