「目的と手段が入れ替わっている」というのは、何かを達成するために用いた方法が、やがて、それを行うこと自体に固執して、目的がなおざりになっていることを指す。
こういう言い方をするときは、たいてい批判的な意味を持っている。具体的には「一貫性がない」とか「だらだらと続けている」ということを指すように思う。
しかし、手段の目的化は、本当に悪い面だけなのだろうか。
例えば、就活のためにTOEIC700点以上を取ろう(目的)と思い、英語を勉強し始めた(手段)として、途中から英語の楽しさに気づいたとする。
最初の目的であったTOEICはどこかへ行き、英語を勉強することそれ自体が楽しくなるわけだから、手段が目的化したと言える。
このようなとき、果たして「一貫性がない」という観点で批判することができるだろうか。
また例えば、社是を達成するため(目的)に、新たな会社を作った(手段)として、社是を達成したからその会社は解散すべきなのだろうか。
そう考えていくと、果たして手段の目的化が、一律して批判されるべきものなのか?という疑問が湧いてくる
「一貫性がない」という批判は、裏を返せば「柔軟性がある」と言えるし、そうでなければ物事や組織は長く続いていかない。
むしろ私たちは、TOEICの例のように、手段の目的化を望んでいる。
「何のためにやってるの?」と聞かれて、「やりたいからやってる」と答えられるものを私たちは探している。
そういえば、そもそも人生に、目的などなかった。
そう考えると、私たちが行っていることはすべて、手段の目的化なのかもしれない。