最近、ロラン・バルトの解説書を読んだ。
バルトは、作者の意図とは別に、「読者の読みたいように読む権利」を尊重する。
つまり、作者の意図を権力的なものと捉えて、それを無効化する議論をしているように思う。
確かに「読者の読みたいように読む権利」は擁護されるべきで、その権利を行使することによって新たな解釈が生まれることもある。
逆に「正しい解釈」というものがあると、「お前の解釈は間違っている」という話になるわけで、もしそれで誰かを責めるようなことがあれば、まさしく権力的といえる。
しかし、このような考えを突き詰めていけば、
「そもそも、自分の意図を正確に伝えるための仕組みは、読者にとって、すべて権力的である」
ということになりかねない。
なぜこんな事を考えるかというと、あいちトリエンナーレ後に、弓指寛治がゲンロンカフェに来て、イベントを行ったことがある。
そのとき東浩紀は、
「炎上する人は『ちゃんと見てくれれば分かる』というけど、そもそも人はちゃんと見ない。」
「弓指くんは『ちゃんと見てくれる環境を整える』のが上手い」
というようなことを言っていたからだ(大意で)。
私も、この言葉には共感する(そして今のSNS時代には必要なことだと思う)のだが、一方で、前述のような流れから見れば、「これは権力的行為なのではないか?」とも考えてしまう。
つまり「作者の意図どおりに見てもらうために、環境を整備すること」とか「意図どおりに読んでもらうために、読者と信頼を構築すること」は、権力的で、回避しなければならないことなのだろうか。
しかし、仮にそうだとしたら、作者は単なる「テクスト製造機」となってしまうのではないか。
これまで進んできた「読者の解釈は、作家の意図から自由」という考え方が、Twitterによって増幅されている。
それにはいい面もあるし、悪い面もあるが、しかしあまりに増幅しすぎていて、解釈が散乱している。
これをどうやって収拾していくか。
もう一度、作者の意図を強調していくのか、このままで良いのか、はたまた別の道があるのか。
「誰もが作者となり、読者となる」という新しい環境の中で、「作者-読者」という関係性自体を、もう一度考え直さなければいけない。