かつげんの拠り所

1992年生のしがない子ども福祉系地方公務員のブログ

どこまでが病気のせいで、どこからが自分の責任か

彼女は、自身にうつ症状があることを告白している。この「うつ症状」というのが、医師から”うつ病”という診断を受けた上での話なのか、それとも医師から診断されていない”うつ症状”なのかというのは、結構厄介な話で、センシティブな話でもある。

ここでは、大坂なおみ云々というより、一般的な話をしたいので、彼女は”うつ病”と診断を受けていると仮定しておきたい。

 

さて、こういう行為を「うつ病からしょうがない」と言えるのか。
うつ病に限らず「病気だからしょうがない」とか「障害があるからしょうがない」という考え方は、どこまで広げられて、どこから制限が掛かるのか。

身体障害の場合は、ある行為が出来るか出来ないかを考えるのは、わかりやすい。例えば、手を伸ばしてあるものを取りたいけど、事故で腕を切断したから取れないというように、比較的、健常者と障害者の差異が、目に見えた形で明らかになる。

しかし、精神疾患の場合は、実生活で何がどう障害されているか、健常者と障害者の差異は何なのかという面が分かりづらい。

例えば、このようなニュースが流れてきた時に、こういった行為は彼女の”うつ症状”によるものなのだろうか。それとも単に彼女のフラストレーションの問題なのか。
そもそも、このようにして「この行動はうつ症状によるものだが、別のこっちの行動は本来の人格」と分けて考えることができるのだろうか。

突き詰めて考えれば、いかなる病気や障害であれ、自分の行動はやはり「自分の行動」でしかない。だから何がどうであれ、自分で責任を取るべきだと思う。しかし一方で、このような考え方が「強者の論理」となってしまっているのではないかという気もしている。

別の視点でいうと、ここでいう「人格」は、あくまで他者から見た「人格」なのだ。つまり、ある行動が表出されて、他者がその行動を解釈し、その人の人格を作り上げていく。だからそもそも、行動と人格は、容易には切り離せない。

 

仕事で「10時に窓口に来てくださいね」と約束した精神疾患の人が、約束を破るということがよくある。1回や2回なら「まぁ障害もあるし、しょうがないか」と思う。こちらも忘れないように工夫する。

しかしそれでも、約束は破られる。
そのとき、再び我々は「障害だから、しょうがない」と思うのか。それとも「この野郎、約束破りやがって」と、怒ってよいのか。

よく「障害は、社会との交渉の中で生じるものだ」という。最初から障害が独立して存在するのではなく、社会とやり取りする中で障害が”生じる”わけだ。まさにそのとおりだと思う。

しかし、まさにそのとおりだからこそ、限度を超えた行動について、どのように取り扱っていくかが難しい。
福祉の仕事は、この”揺れ”の中で行う必要があるし、たぶん正解はない。