かつげんの拠り所

1992年生のしがない子ども福祉系地方公務員のブログ

昨今の”教養ブーム”から見えること

仕事帰りに書店をフラフラしていると、“教養”という言葉が、流行り言葉になっているのが分かる。

例えば、

・世界の教養
・教養としての○○
・世界のエリートが知っている○○ 

など、書棚が「お決まりのフレーズ」で彩られている。
あらゆるものがビジネスに必要なものとされ、書籍が量産されている。

しかし冷静に見たときに、日本史・世界史・芸術・哲学・ワイン・落語・茶道など、これだけの“教養”を現に身に着けているビジネスエリートが世界にどれだけいるのだろうか。

他者に対する卓越を示すための手段

この教養ブームは、なぜ起こっているのか。一つには「他人を出し抜く手段として、教養が用いられている」ということだろう。

「日常に侵入する自己啓発」という本がある。この本は、自己啓発本の分析をしている本だが、以下のような記述がある。ここでいう「年代本」とは「20代のときにやっておきたいこと~」のような、年代でターゲットを設定している自己啓発本のことをいう。

「年代本」でまずもって促されるのは、仕事に積極的に没入し、仕事における微細な場面に能力の差異を読み込み、同僚からの卓越を企図し(20代)、プライベートや新しく築き始める家庭を仕事と地続きのものとして捉えようとし(30代)、会社組織における出世レースに食らいつける限りで食らいついていくという(40代)、仕事における卓越という賭金=争点をめぐるゲームヘの参入だったといえる。(98)

このように自己啓発本は、「仕事において他人を出し抜く」という卓越に重きをおいている。

この記述から考えられるのは、教養ブームで取り上げられるそれぞれの“教養”が、実はビジネスエリートが当然知っているような常識的な内容ではなく、むしろ「周りは知らないが自分だけは知っている」という”特殊な教養”なのではないかということだ。

つまり、教養ブームで取り上げられるそれぞれの教養は、実は“教養”などではない。むしろニッチな内容を“教養”と詐称することで、「俺はエリートだから知っている」と優越感に浸らせたり、「皆は知っているのに、まだ知らないの?」と焦らせているだけではないか。

ロマンの衰退

 もう一つ言いたいのは、ロマンの衰退だ。

教養は、そもそもビジネス的な側面はあまり考えられていなかった。役立たないけど、なんとなく知っていたり、好きだから知っていたりするのが“教養“だった。

しかし「なんとなく知っている」「好きだから知りたい」というロマン的な教養は今や衰退し、「社会に参加するためにはこれだけは覚えておけ」という資格として、もてはやされている。教養は世間を急かし、焦らせ、時に優位性を突きつけるための道具となってしまった。

果たしてこれでいいのか。教養とはもっと素朴で、気軽なものではなかったか。

こういった教養ブームは、「見返り主義」が現代において求められていることの証左かもしれない。「見返り主義」とは、コストに対する見返りがあることを希求する考え方だ。こういった市場に適応できないロマン的価値は、衰退していくのだろう。

だからこの教養ブームは、一部のファンのロマンに頼ってきたジャンルが、ファンの減少に抗うフォーマットとして“教養”を詐称し、“見返り“を前面に打ち出しているとも考えられる。

侵食する見返り主義

アメリカにサンディ・スプリングス市という市がある。この市はもともと、フルトン郡に属していたが、やがて独立した。問題はその独立した理由である。

リバタリアニズム-アメリカを揺るがす自由至上主義」によると、

もともと医師や弁護士、会社経営者が多く暮らす裕福な地域だったが、納税額に見合った公共サービスを享受していないとの不満が鬱積していた。そこで二〇〇五年に住民投票を行い、九四%の圧倒的支持を得て、それまで属していたフルトン郡から独立(法人化)した。同州では約半世紀ぶりの新都市の誕生だった。(34)

つまり、「払っている税金に対する見返りがないじゃないか」というわけである。

またメンタリストのDaiGoが、先日、生活困窮者への差別的発言で話題になったが、彼もまた同じような思想だ。つまり「自分が納得する税金の使い方をしてほしい」と。

こういった例を見ると、高校で習うような「税の再分配機能」に対して、特に富裕層から反発があり、富裕層でない中流階級の人たちにも、その思想が浸透しているということが言える。つまり、税金に対しても、ある種の「コスパ」や「見返り」を求めている。

さて、このように見ていくと“教養ブーム”は一時的なブームではなく、むしろ「見返り主義」を忠実に沿った形になっている。

なんとなく「教養は大事だよね」という空気(つまり「ロマン」)によって、その重要性を主張するのではなく、その”教養”を身につけることによって、自分にとってどのようなメリットが有るのかを主張する。そのような主張を見て、数ある教養の中から取捨選択をする。

周りを見渡せば、税金や教養だけでなく、いろいろなもの(話題になった「稼げる大学」もそうだろう)が「見返り主義」による再考を求められているように見える。言ってみれば、「今すぐ日当が欲しい」と言っているように見えるのだ。

国も市民も、だいぶ余裕がなくなってきたのではないか。そのうちサラ金に手を出して「借りた金でワンチャン当てるから!」と言うようになるのではないか。そんな心配をしてしまう。