紙、紙、紙
私は地方公務員で、現在、条例や規則(まとめて「例規」という。)に関する事務を行っている。この事務においては、ひたすら紙を使う。
しかも、それぞれの「紙」は、間違ってはいけないものがほとんどだから、多くのチェックが入る。チェックのために紙を印刷する。裏紙だけが増えていく。
特に、条例案を議会に提出する時は、膨大な紙を消費する。
条例案自体はもちろんのこと、管理職へ条例案の改正を説明するための概要文、その概要文を補足するための資料。
条例案や概要文は議員の数だけ配布するから、それも当然印刷する。
ひたすら、紙、紙、紙
それが、私が今所属している部署の現状である。
資料のお守り的使用法について
もちろん、今使用している紙の資料をすべて電子化するのは不可能だ。例えば、条例案の原本は、原本として紙で存在することに意味がある。
しかし、それほど必要でないであろう資料を作っているときに「本当にこの資料を読んでいるのだろうか」と思うことも多々ある。管理職から「こんなにたくさん資料もらっても、読めないよな~笑」と言われたことすらある。
特に思うのは、「想定外の質問のために、とりあえず資料を持っておきたい」という、念のために作成する資料のことだ。
私は、こういった資料作成のことを、
「資料のお守り的使用法」
と呼んでいる。
見直しのない前例主義について
こうした「お守り資料」の他にも、資料が増大する原因はある。それは「見直しのない前例主義」だ。
本来的には、資料が必要となったその都度、資料の要・不要を検討し、作成する資料を決めていくはずだ。しかし、私の職場では、「前回もこの資料を作成したから、今回も同じ資料を作成しよう」といった形で、特に過去を見直さないまま、資料を作成することが多い。
ちょうど明日ブログで書くこととに関連しています。「前例がない」というのは、申出を断る理由にはならないと私は考えています。/ なぜ役所はすぐに「それは前例がありません」と言うのか(ニュースイッチ) - Yahoo!ニュース https://t.co/Z3YHEMueCT @YahooNewsTopics
— かつげん (@katsugen0331) January 5, 2019
この論考に対する一連のツイートでもあるように、「前例」というのはあくまで参考であって、判断の根拠とするには弱い。「昔やっていたからorやっていなかったから」というのは、単なる前例の存在に対する指摘であって、それ以上のものではない。
大事なのは、前例の存在に対する指摘ではなく、なぜそのような前例が作られたのかという理由の考察である。昔と今は、行政のあり方も社会情勢も、何もかもが異なっているはずだ。それなのに、「前例だから」といって、過去の判断を現在へと平行移動するのはおかしな話である。
改善するための正攻法とは
「資料のお守り的使用法」と「見直しのない前例主義」によって、少なくとも私の職場では、紙の資料が年々増大している。
では、どうすればこのような慣例をなくせるのか。
今のところは決定権者に、現状と改善の必要性を提示するという正攻法しかないように思う。
例えば、毎回どれだけ紙を用いているか。また、それによってどれだけのお金を使っているのか。
ここでいう「お金」とは、紙の費用だけではなく、印刷代や作業にかかる人件費なども考慮されるべきだろう。
また、その資料を作成するのに、どれだけの時間を費やしているのかといったことも重要だ。資料の作成によって残業をしていたら、それだけ生活を圧迫していることにもなる。
しかし、結局のところ、決定権を持つ者が決断しなければ、事態は大幅に動かないのだ。
苦しい決断の積み重ね
事態の改善には、この記事でも書いたように、「アップデートの思想」が求められる。
「やったほうが良い」と思ったときに行動しないと、人間は先送りにする。そして、その先送りの積み重ねが、新たな前例となり、判断の根拠となる。
こうした泥沼に嵌っているのが、私の今の職場である。
この負のサイクルから抜け出すためには、決断が必要だ。
改善は、トップが変わったり、使用する機器が変わったりすること、つまり「外圧」によって行われてはいけない。そのような改善は、表面的に刷新されるだけで、中身を改善させることには繋がらないことが多い。
事なかれ主義で先送りするのではなく、その都度、必要性を吟味し、決断をする。こうした、地味で苦しい決断の積み重ねでしか、負のサイクルを改善することはできない。
理想論だろうか。しかし、理想を語らないと現実は始まらない。